自然の中では、環境が刻々としかも複雑に変化する。植物は、こうした変動環境下でも概ね決まった時期に花を咲かせている。じっとして動かない植物だが、生きるための様々な機能を持ち、それらを駆使して葉を広げ、水を吸収し、花を咲かせて実を結んでいる。その機能が少々の環境変動で誤作動していては、自然界で生きていくことは難しい。そのため、これらの機能を支える遺伝子の働きは、変動する自然環境の中でも十分能力を発揮できるようなしくみにより支えられているはずである。そのしくみを知るために、フィールドで分子遺伝学的研究を始めた生態学者がいる。京都大学生態学研究センターの工藤洋教授に、自然のフィールドで行う遺伝子の働きの研究について、なぜ始めたのか、そしてどのようなことが明らかとなり、さらに何を解明したいのかを聞いた。
巡り合わせで植物生態学へ
高校生の時は、山歩きが好きでした。そのころは仲間内で目標があって、年間100日は山で過ごすということでした。もっぱらのピークハンターで、せっかく山に行っても植物はほとんど見ていませんでしたが、自然の中で感覚が研ぎ澄まされる喜びがありました。
大学に入って、さあ生物学をやるぞと張り切って生化学の研究室を覗きに行ったら、研究者になりたかったら「体力をつけなさい」というアドバイスを受けました。そこで、ラグビー部に入部して、体力をつけました。その時コーチからは、常に「プレーするスペースをつくれ」と言われていました。ボールの位置を下げてでもスペースをつくらないと、相手の守備ラインを突破できません。これは研究の進め方にも通じるものがあり、コーチの言葉は今でも時々思い出します。
3年生の終わりに研究室を決める頃には、生物学の講義を通して細胞学に興味が湧いていました。どのようにして隣り合う細胞がコミュニケーションをとり、細胞同士が接着し、器官を形成していくのかに興味を持ったのですが、その研究室はとても人気があって、私は入ることができませんでした。ずいぶん遅くまで研究室が決まらずにいると、アメリカに遊学して不在だった植物生態学の先生が戻ってきて、研究室に誘ってくださいました。体も大きいし、ぴったりだと言っていただき、それが植物生態学の研究を始めるきっかけとなりました。
動かないからこそ面白い植物の生き様
植物生態学の研究室で、富士山をフィールドに研究を開始しました。生態学は生育地で生物をそのまま見つめる学問です。細胞学も魅力的な分野でしたが、生態学も素晴らしい分野でした。土壌もほとんど発達しておらず、冬は凍てつき、生育期間が限られる過酷な環境に植物は生きていました。植物は動かないからつまらないかもしれないと思っていたのが、その反対でした。動けないからこそ面白いのです。すべてを受け入れて立ち続ける植物の生き様の見事さに魅せられて、その適応についてさらに深く知りたくなりました。
大学院は、植物の系統分類学の研究室に進みました。分類学の研究室では様々な植物種に触れる機会がありますが、特に重要だったと思うのは植物標本庫での経験です。多様化した植物、しかも遠く離れた場所で採取された植物を隣において比較できるのです。祖先が同じ植物で共有される形質、新しい生育地で派生的に生じる形質、いろいろなものを見比べていると進化の道筋が見えてきます。これらの多様な形質それぞれが、進化の歴史・形成のメカニズム・生育地での機能を持っていると考えると、その中に分け入って、身を置いて、いろいろと見てみたいと思うようになりました。
フィールドで遺伝子発現を調べる
「もうすぐ花を咲かせよう」、「かなり寒い」、「この虫は危ない」、「あと何時間したら夜が明ける」といったことを、植物がどう感じているかを「植物の気持ち」と例えることにします。この植物の気持ちを知るために、私たちが一番よく使っているのが遺伝子の働きを調べる方法です。遺伝子はDNA上にあって、それが使われるときには、いったんメッセンジャーRNAに転写され、それがタンパク質に翻訳されて機能を発揮します。この一連の過程を遺伝子発現といい、メッセンジャーRNAの量を調べると遺伝子の発現量が分かります。
例えば、花を咲かせる遺伝子は葉で働いて、その指令が芽に移動していくことが知られています。そのため、この遺伝子の発現量が増えてくると、植物がもうすぐ花を咲かせようとしていることが分かります。どのストレス遺伝子や防御遺伝子が発現しているかによって、寒さを感じているのか、食害を受けて防御力を上げているのかが分かります。時計遺伝子は一日一回振動するように発現量が変化するので、複数の時計遺伝子の働きを見れば、植物が何時と感じているのかが分かります。こうした植物の気持ちが分かるようになって、ますます植物の研究が面白くなっていきました。
遺伝子発現の季節変化
ハクサンハタザオというアブラナ科の植物を対象に、花を咲かせる時期を調節する遺伝子を調べました。1年間はおおよそ50週ありますが、多くの植物が花を咲かせるピークは2週間です。どうしたら植物が花を咲かせるべきその2週間を感知し、開花するのか、それが最大の疑問でした。
ターゲットとしたのはFLCと呼ばれる遺伝子です。FLCは花の形成を抑制することで、植物に葉をつくらせ続ける遺伝子です。ハクサンハタザオの生育地から、毎週葉をサンプリングしてきて、定量PCRという手法でFLC遺伝子の発現量を測定しました。ハクサンハタザオは栄養繁殖によってたくさんの株を作るので、数百枚ある葉から毎週1枚の葉を採っても、さほど影響がありません。植物が動かないことを活用して、毎週同じ個体セットからの調査を続けました。
こうして分かったことは、この遺伝子の働きが大きく季節変動をしていて、発現量が年間で800倍近く変動することです。同じことが毎年繰り返されていることをもう1年かけて確かめて、2年間でおおよそ100回の調査の結果をまとめて、世界で初めて遺伝子の働きの季節変化を報告しました。
植物は環境を記憶する
自然の中で遺伝子発現の季節変化を研究してみると、実験室での研究とは違う面を明らかにすることができます。例えるならば、飛行機の部品のしくみや働きの詳細を工場で研究するのが後者だとすると、前者は実際に飛んでいる飛行機の中でその部品がどのような役割をしているかを研究するというイメージですね。その結果分かったのが、FLC遺伝子は、まるで過去の気温を覚えているかのように調節されているということでした。面白いことに、過去6週間の10.5℃以下の気温の積算値を参照しながら調節されていたのです。この6週間というのが絶妙な期間で、季節的な温度変化を知る上でちょうど良い長さになっています。
自然環境下では気温は刻々と変化し、昼と夜とで15度くらい違うのが普通です。また、春だからと言って、昨日より今日の方が温かいとは限りません。でも、過去6週間の平均気温を計算すると、春は毎日だんだんと温かくなり、秋は毎日だんだんと寒くなります。FLC遺伝子は、温度に応答する遺伝子なのに昼夜や数日の変化には応答せずに、季節的な長期傾向だけに応答する遺伝子だったのです。つまり、FLC遺伝子の働きを調節する仕組みには、過去6週間の気温は憶えているけれども、それ以前のことは忘れるような仕組みを持っています。このようなことを私たちは植物の記憶と呼ぶことにし、どのようにして憶えて、どのように忘れるのかを調べることにしました。
細胞が記憶する環境変化
6週間もあると、植物はどんどん成長します。そのため、記憶は細胞分裂を経ても伝わる必要があると考えました。そこで着目したのがクロマチンの構造とそれを制御するヒストンタンパク質の修飾です。遺伝子の情報はDNA上に書かれていますが、それは核の中でヒストンと呼ばれるタンパク質の集合に巻き付きながら、折りたたまれ、クロマチンとして収納されています。ヒストン修飾は、この巻き付きや折りたたみの強さに影響し、抑制修飾は凝集したクロマチン領域に特徴的で、遺伝子の働きを抑える効果を持ちます。この抑制修飾は細胞分裂を介しても伝えられ、それが細胞記憶と呼ばれています。
FLC遺伝子の働きの調節では、この抑制修飾を介して過去6週間の気温変化を記憶していることが分かりました。FLC遺伝子領域のクロマチンの凝集具合が、過去の平均気温にあわせてゆっくりと変化しているのです。このしくみの面白いところは、気温の短期変化には惑わされず、長期の傾向に沿って調節が行われることです。このようなタイプの調節をもつ遺伝子は、短期間の実験では見過ごされやすいので、今後、他にも見つかってくるかもしれません。
10年続けた野外調査
毎週、片道2時間かけてフィールド調査に行っています。毎週行くメンバー、月に1回のメンバー、色々ですが、ずっと続けています。大変なこともありますが、見たこともないようなデータが得られるので、その価値は十分あると思っています。そろそろ10年が経とうとしていますが、次々と技術革新があるので、長期にとり続けているデータと、新しい試みを組み合わせて研究を進めています。
最近ではトランスクリプトーム解析と呼ばれる方法を取り入れているのですが、植物にある約3万種類の遺伝子の発現量を遺伝子別に一気に調べることができるので、そのデータをもとに自然条件下で植物が感じていることを解釈していきます。これには、植物分子生物学が明らかにしてきた知識を総動員して行いますが、開花応答や概日時計のように遺伝子の機能が良くわかっている現象については詳しい解釈が可能です。でも、まだ機能がわからない遺伝子も多いので、その研究が進めば、今後ますます深い解釈ができるようになると思います。
フィールドで自在に分子生物学
現在は、自然環境下で長期の環境変化に応答する遺伝子を洗い出し、ヒストン修飾やその他のエピジェネティック制御(塩基配列の変化を伴わずに遺伝子発現が制御される仕組み)の役割を研究しています。これまでの研究で整備してきた実験環境と経験のおかげで、自然のフィールドで自在に分子生物学の研究をするだけの準備が整いました。ラグビーでいうところのプレーするスペースができたところです。
生態学では、変動環境や生物間相互作用に対して、過去の環境や経験を記憶しているかのように応答することが適応的であるとされていますが、そのメカニズムはこれまで謎でした。フィールドでの研究から、その分子実体を明らかにしていきたいと考えています。また、クロマチン構造を介した細胞記憶は、動物では発生やガン化に対して重要な役割を持つことが知られてきましたが、植物では環境応答に重要な役割を果たしているようです。このあたりも、さらに詳しく調べていく予定です。ゆくゆくは、ササやタケのように、60年から100年に1回開花するような植物の記憶のしくみの解明にもチャレンジしてみたいですね。
構成協力 本庄 三恵 / 撮影 松林 嘉克
1988年 静岡大学理学部卒業。京都大学大学院理学研究科にて博士(理学)の学位を取得。米国スミソニアン環境研究所ポスドク、東京都立大学理学研究科助手、神戸大学理学研究科准教授を経て、2008年より現職。